ドラえもんは戻ってくる必要があったのか

 去った9日に『STAND BY ME ドラえもん』を見てきた。

 前売券を購入して二ヶ月。気が付けばこの日で夜の部は終わりのようだったので、多少強引にスケジュールを調整して駆込み観賞。ちなみに映画館まで足を運ぶのは6年ぶりになる。

 今回の映画は大長編のリメイクではなく、マンガ原作の良エピソード「未来の国からはるばると」「雪山のロマンス」「のび太の結婚前夜」「さようならドラえもん」「帰ってきたドラえもん」「たまごの中のしずちゃん」「しずちゃんさようなら」の7作品を再構築して作られており、自分のような大人「も」ターゲットにしている。

 映画自体は従来の大長編のような痛快さはないものの、感情の機微を味わうことができる佳作だと思う。ムシスカンで感動するのも映画ならではだろう。ただ、自分としては「帰ってきたドラえもん」のエピソードだけは不要だったのではないかと感じた。もちろん、このエピソードが『ドラえもん』という作品を語るうえで決して外すことの出来ないものだということは重々承知しているが、『STAND BY ME ドラえもん』というひとつの映画としては、蛇足に感じた。

 これまでのドラえもんは、のび太ドラえもんの絆がまず中心にあり、そこにしずかちゃん、スネ夫ジャイアンという個性を持った脇役が絡んでいくという構図だった。主役は、のび太ドラえもんというふたつの個だ。だからこそドラえもんのび太の別れが悲しく、再会が喜ばしいわけである。

 しかし、『STAND BY ME〜』ではのび太としずかちゃんの絆が中心に据えられており、ドラえもんはあくまでも二人の関係をサポートするだけの役回りになってしまっている(実際、そのために来たわけだけど)。脇役とまでは言わないが、ひとつの個ではなく、のび太の中の一部として存在しているようだった。95分という時間の制約上仕方がないが、ドラえもんのび太の深い絆を映画の中だけで表現できているとは言い難かった。もちろん観客のほぼ全員が二人の絆の深さを知っている前提なので、それは瑣末な問題なのかもしれない。

 『ドラえもん』は、ダメなのび太ドラえもんの道具をきっかけにいろいろな経験し、最後は道具なしでも生きていける強さを身につけるという成長譚だ。それを、友情という側面から見るとドラえもんが主役になり、愛情という側面から見るとしずかちゃんが主役になる。『STAND BY ME〜』は後者だった。

 雪山で、ドラえもんの道具を使わず、自分自身を信じて危機を乗り越えたのび太はもうドラえもんのサポートがなくても生きていけるはずで、それにもかかわらずドラえもんが再び戻ってくることは、のび太のさらなる自立を妨げることになりかねないのではないだろうかとすら思ってしまう。実際、前提知識なしでこの映画を見た場合、たとえドラえもんが戻ってこなかったとしてもバッドエンドだとは思わないのではないだろうか。たとえば『千と千尋の神隠し』でハクと別れた千尋、『魔女の宅急便』のラストでジジの言葉がわからないままのキキと同じで、のび太のもとにドラえもんが戻ってこないエンドだとしても、それは決して不幸ではないと、悲劇好きの自分は思う。